2010年、大阪で起きた2児放置死事件を題材にした映画「子宮に沈める」。
事件当時、私は高校生だった。同じ部活の友人の家に泊まっていたある夜、テレビからそのニュースが流れてきた。
友人の母親は「このニュースは恐ろしくて見たくない」と言い、リモコンを手に取り画面を消した。大人がニュースを見たくなさそうな顔をするのを、初めて見た気がした。
幼い子どもたちが、鍵のかかった部屋で死んでいった現実を、当時の私はうまく飲み込めないまま、ただその夜が過ぎていったのを覚えている。
あれから十数年が経ち、映画という形でその事件と向き合うことになった。
映画の中の母親は、誰が見ても「いいお母さん」だった。子どもたちのために手の込んだお弁当をつくり、ちゃんとお世話をしていた。ただ、離婚後シングルマザーとなり、外へ働きに出る場面から「いいお母さん像」が崩れていく。
子どもの体調が悪くなり、職場に電話して仕事を休まなくてはいけない描写。ほかに頼れる人がおらず、だんだん孤立していく様子がとても切ない。そして水商売をしている友人から、水商売の仕事の紹介を受け、夜の世界へ行くことになる。ここから目を背けたくなる場面の数々だ。
最も苦しかった場面がある。母親が彼氏のような男を家に連れ込み、性交渉をする場面だ。幼い子どもが襖一枚隔てた壁のすぐそばにいる。
その音を聞きたくないのか、子どもはわざと物を落とす。小さな手が、わずかな生活音を作り出そうとする描写に声が出なかった。幼いながらも、母親のその姿は見たくなかったのではないだろうか。
もう一つ、忘れられない場面がある。まだ幼い娘が、母親の真似をして口紅を塗る。鏡の前で、たどたどしくリップを引く小さな手。子どもが母親を慕い、真似るのは本来ほほえましい光景のはずだ。
しかしこの映画の文脈からだと、娘が真似しているのは母の生き方の影だ。見てはいけないものを見て、覚えなくてよいことを体に刻んで育っていく。その理不尽さに、胸が塞がれた。
そして母親はだんだん家に帰らなくなった。一度帰ってきたと思ったら、大量のご飯を作ってまた出て行った。食べものと飲みものがなくなり、下の子のおむつ替えもできなくなる。窓の鍵も開けられないように施錠され、母親を呼ぶこともできない。家の中はハエが飛び交う地獄絵図のようだった。
映画を見終えた後、しばらく何もできなかった。
この事件を「ありえない母親」の話として片付けることは簡単だ。でも映画が言いたかったのはそこではないはず。
孤立した若い母親、頼れる大人のいない環境、子育てを社会が支えるという発想の不在。カメラはそういった背景をセリフとしては語らないが、画面の隅にその気配を漂わせている。子どもたちを餓死させる残酷な母親を作り出したのは、一人の人間だけではないかもしれないという問いが、静かに残る。
子どもたちが餓死した事実は変わらない。もしあの時、母親が社会に助けを求めていたら、命を救えていた可能性はゼロではなかったとも思う。
友人の母親がテレビを消したあの夜から、社会は何か変わっただろうか。日本は「自己責任」の考え方が根強くあり、本当に助けを必要としている人が助けを求められない構図ができあがっている気がするのだ。
「助けて」と言える社会に、私たちはまだなれていない。では、どうすればいいのか。その答えを私はまだ持っていないが、声をあげ続けることはできるのかもしれない。
