タイのとあるナイトマーケットを訪れたとき、1人の男性が目に入った。裸足でテーブルからテーブルへと、食事中の人たちに「恵んでくれ」と手を差し伸べていた。

女性2人組のところへ男性が近づいたとき、彼女たちは迷わず自分たちの食べものを分けようとした。やさしい行動だと思ったが、男性は首を横に振った。「食べものじゃなくてお金がほしい」と。その瞬間、なんとも言えない空気が流れた。

思えば、私たちは子どものころから「募金」というものに慣れ親しんできた。学校でユニセフの封筒を持たされ、アフリカや東南アジアの子どもたちの写真を見せられ、「助けてあげよう」と教わった。小銭を集めて、箱に入れて、それで何か良いことをした気になっていた。

あれから何十年が経つ。私たちは大人になり、給料から寄付をする人もいる。チャリティーイベントに参加する人もいる。クリックひとつで募金できるアプリまで登場した。

でも、正直な意見を言うと何か変わっただろうか?

もちろん、個別の支援が命を救った事例は数えきれないほどある。ワクチンが届いた村がある。井戸が掘られた地域がある。それを否定したいわけではない。

食べものを差し出した女性たちの行動を、私は責める気にはなれない。目の前の人に手を差し伸べようとした気持ちは本物だ。でも男性が「食べものじゃなくてお金をくれ」と言ったとき、その言葉の裏には何があったのだろう。釣りの仕方を知らないまま、今日の魚だけを求め続けている人の姿が、そこに重なって見えた。

貧困の根本にあるのは何か。私は教育の欠如ではないかと思っている。世界銀行やユネスコの研究でも、教育年数が増えるほど所得が上がること、基礎的な読み書き能力があるだけで極度の貧困は大幅に減少することが示されている。

年齢に適した教育を受ければ、読み書き計算ができる、情報に騙されにくくなる、人や物を大切にしようという倫理観を持てるからだ。

ただ、教育さえあれば解決するほど話は単純ではない。教育を受けても仕事がない国がある。汚職や独裁、インフラの欠如。そういった「制度」の問題が重なると、どれだけ個人が学んでも、その力が社会に活かされない。

貧困は悪循環だ。貧困だから教育を受けられない、教育がないから低所得になる、低所得だから栄養が足りない、栄養が足りないから学習能力が育たない。その輪をどこかで断ち切らなければ、魚をいくら渡し続けても、悪循環は止まらない。

募金を否定したいわけではなく、寄付をする人を批判したいわけでもない。

あのナイトマーケットでの男性の行動が頭から離れないのは、「善意だけでは足りない」という、どこかで薄々気づいていたことを、改めて突きつけられた気がしたからだ。

本当の意味で何かを変えたいなら、魚を渡し続けることの先を考えて、目を逸らさないことが必要かもしれない。