アルコール依存症の父親からDVを受けて育った、都内在住のOさん(40代)。幼い頃から酒に酔った父親に叩かれ、蹴られ、言葉で心を削られ続けた。誰かに助けを求める度に「あんないいお父さんが、そんなことするはずない」と跳ね返され、やがて誰にも言わないことを選んだ。
こうした経験は、子ども時代だけで終わらない。安全な場所にいることへの罪悪感、誰ともつながれない孤独感、自分が悪いのだという間違った思い込み。家の中で刷り込まれた経験は、大人になってからも影響を与え続ける。
今回は「家庭」という密室で起きるDVの実態や、ヤングケアラーにならざるを得なかったOさんの声をお届けする。
お酒を飲むと手が出た父
Oさんが物心ついた頃から、父は酒を飲むと豹変した。
夕食後、父がグラスを傾け始めると、Oさんと妹は別の部屋へ逃げた。同じ家の中では逃げ場が限られている。押し入れや部屋の隅で息をひそめ、嵐が過ぎるのをただ待つ。それが、子ども時代の「夜のルール」だった。
「父が飲んでいることが分かったら、その部屋から逃げるんですよ。なるべく離れたところに行って、ちょっと隠れて」
父はOさんのお腹や足を狙って、叩いたり蹴ったりした。身体的な暴力だけでなく、言葉でもOさんの心を削っていたという。
「これができていない、あれができていないとか、他の子と比べてこうだとか、ネチネチと言われましたね」

酔いが回って一通り暴れた後、父はようやく眠りにつく。そして、翌朝は何事もなかったように起きてくる。謝罪の言葉は、一度として聞いたことがなかった。
父のアルコール依存症は、仕事を辞めてからさらに深刻になったという。日中から飲み続け、外出するのもほぼ酒を買いに行くためだった。糖尿病を抱えながらも飲むのをやめず、医者から注意されれば、付き添いのOさんが代わりに頭を下げた。
母は働かない父の代わりに仕事に出ており、帰宅しても疲れ果てていた。父のDVを知りながらも止めることはなく、「ああいう人だからしょうがない」と目を背けていたそうだ。
父方の祖母も同居していたが、状況は分かっていても動かなかった。孫を庇うことで、自分が被害に遭うのを恐れていたのかもしれない。
「誰かに助けてもらった記憶は特にないですね」と語るOさん。家の中に、Oさんの味方は誰1人いなかった。
信じてもらえなかったSOS
ある時、父の暴力に耐えきれなくなったOさんは、友人や先生に相談したが、返ってきた言葉は、予想外のものだった。
「あんなにいいお父さんがそんなことするはずないと言われて、逆に傷つきました」
父は外面がよかった。近所でも学校でも、穏やかで礼儀正しい人物として映っていたのだ。家の中で何が起きているか、外からは誰にも見えない。だからこそ、Oさんの言葉は信じてもらえないどころか、「なんでそんな悪く言うの?」と、逆に悪者になる展開すら招いてしまった。
それ以来、Oさんは口を閉じるようになった。言えないのではなく、「言わない」と決めたのだ。言って傷つくくらいなら、黙っている方がまだましだった。
「表面上は普通に話しているんですが、内心は誰ともつながっていない感覚がありました。家では常に緊張で疲れ切っていて、支配と非支配の関係性しか知らなかったんです。学校も安らげる場所ではなかったので、孤独でしたね」
そんなOさんが家族の世話を始めたのは、小学校の低学年のことだ。父は酒を飲んでは倒れ、祖母は認知症が進行していた。2歳下の妹は、1人にしておける年齢ではない。母は日中仕事に出ており、帰宅しても家事をこなす余裕はなく、その隙間をOさんが埋めていた。
妹を守らなければという感覚、祖母の様子を気にかけること、酔って路上に倒れた父を迎えに行くこと。そのどれもが、当時のOさんにとっては「当たり前の日常」だった。
違和感を覚えたのは、友人の家の様子を目にした時だ。欲しいものを欲しいと言い、親に頼り切り、時には喧嘩もする。友人の子どもらしい姿が、Oさんには不思議に映った。

Oさんは「そんなに気を使わないんだとか、欲しいものを欲しいって言えるんだとか。それが当時はすごく違和感があった」と話す。親に対して意見を言う発想そのものが、Oさんの中にはなかったのかもしれない。
その頃から、もう1つの複雑な感情も芽生え始めていた。父の暴力の矛先が妹に向く日は自分への被害があまりない。そのことに、ホッとしてしまう自分がいた。
「妹が標的になった日は、すごいホッとするんですけど、同時に罪悪感もあったんです」
安全でいることへの申し訳なさ。自分が傷つかない日に安堵する自分を、責めずにはいられない。そんな矛盾した感情を、幼いOさんは1人で抱えていた。
扉の向こうで起きていること
「こういう感情を子どもに持たせてはいけない」とOさんは静かに言う。
DVが厄介なのは、家の外から見えないことだ。どれだけ日常的に暴力が繰り返されていても、玄関の扉一枚隔てれば、何も起きていないように映る。
児童相談所が自宅を訪問しても、親が「元気です」と言ってしまえばそれ以上踏み込めない。プライバシーの侵害を盾に訴えられるリスクもある。
担当者が抱える案件は膨大で、1つの家庭をじっくり見守る時間的余裕もないのが現実だろう。構造的な問題と言ってしまえば簡単だが、その狭間で救われなかった子どもたちがいたのもまた事実だ。
問題をさらに根深くしているのは、時代の空気もある。当時は「アルコール依存症」という概念も、「DV」という言葉も、社会にほとんど浸透していなかった。
「酒飲んで暴れることはあるよね」という感覚が、昭和の家庭には漂っていたのだ。インターネットもなく、調べる手段もなく、子どもが自分の置かれた状況を正確に把握することは難しかった。
このように可視化されなかったのは、Oさんの家だけではないはずだ。似たような環境で育ちながら、それを問題だと認識できないまま大人になった人が、どれだけいるのだろう。
献身的に家族の世話をする子どもは、むしろ褒められさえした。日本社会が奉仕や我慢を美徳とする文化を持つ限り、その影で何かが見過ごされ続けている。
親を捨てるという選択
自立できる年齢になり実家を出たのを機に、Oさんは両親との関係を断った。母から連絡が来ても、すべて無視している。向こうは「なんで?」という感覚なのだろうが、Oさんの答えはとうに出ている。
「許す許さないの問題じゃなくて、もう関わりたくないんです」
葬儀にも行くつもりはなく、相続が発生すればすべて放棄する。これがOさんなりの、決別の覚悟だ。冷たく聞こえるかもしれないが、そこに至るまでに、どれだけのものを抱えてきたかを思えば、その選択にも納得できる。
Oさんは「親を捨てるのが一番人生にとって健康だなと思って。私は前を向いて新たな家庭を築いているのに、いつまでも過去から引っ張られるのが嫌なんですよね」と話す。

過去の経験がOさんから、安心して誰かに頼ることや、自分の気持ちを素直に表現することを奪った一方で、経験から得たものもある。物事を1つの角度からだけでなく、複数の視点から見る癖がついた。
専門的には「ポストトラウマティックグロース」という、トラウマ後の成長と呼ばれる段階に、Oさんは自らの力でたどり着いたのだ。
今、Oさんには小学生の息子がいる。「言うことを聞かなくて手がかかる時もあるが、息子の存在そのものが愛おしい」と語る。同時に、かつて自分が背負わされていたものの重さも、改めて実感した。
「子どもに背負わせなくていい責任を背負わせるのは、本当によろしくないとすごく思いました」
子どもの代で、このサイクルを終わりにする。それがOさんの、静かで揺るぎない決意だ。今の目標を聞くと「まず今を生きる。目標を持たないのが、今の目標です」とにこやかに語ってくれた。過去でも未来でもなく、今ここにいることに向き合う。
声が未来を変えていく
「今大変だなとか苦しいなとか、ちょっとおかしいなと思うことがあれば、本当に些細なことでもいいから、できるだけ専門機関に相談してほしい。これぐらいのことでいいのかな?と思わずに、即行ってください」
友人に話せば「気にしすぎだよ」と流されることがある。先生に打ち明ければ「あんないい親がそんなことするはずない」と跳ね返されることがある。
Oさん自身がそうだったように、善意の言葉が深く刺さることもある。だからこそ、専門機関へ相談をと強く訴える。
「そういう環境で育つと、自分が悪いと思い込んじゃうんですよね。でも、あなたは悪くないし、今の時代なら逃げられる場所があります。相談することは自分自身で自分を助けようとしている、健全な行動だと思うので」
Oさんが子どもの頃、DVやアルコール依存症という言葉は、社会にほとんど存在しなかった。問題そのものはあったのに、名前がなかった。
名前がないものは語られない。語られないものは見えない。見えないものはなかったことになる。その構造の中で、どれだけの子どもたちが声を飲み込み、「自分が悪いのだ」と思い込んで育っていったのだろう。
今こうして問題が可視化されるようになったのは、声を上げ続けた当事者たちと、それを問題だと認識し広めようとした人々の積み重ねがあったからだ。
声を上げても信じてもらえなかったあの日の声は、今、誰かを救うための言葉として生きている。
