日本の小・中学生の不登校児は約35万人を超え、過去最多を更新した。中学校では、クラスに2〜3人が「学校に行かない」を選んでいる計算になる。

有限会社AHK 取締役、そして公益財団法人 草の根事業育成財団 事務局の長谷直人さん(以下:直人さん)は、重症心身障がい児の支援施設を運営する傍ら、草の根事業育成財団の一事業として、学校に行かない選択をした子どもたちの居場所づくりに取り組んでいる。

本記事は前編・後編の2回にわたってお届けする。前編では直人さんがこの活動にたどり着くまでの原点と、現在の活動の様子を。後編では、不登校をめぐる社会課題と、保護者へ向けたメッセージをお伝えする。

不登校支援の原点

直人さんが今の活動にたどり着くまでの道のりは、まっすぐな一本道ではなかった。

高校までサッカーを続けていた直人さんは、スポーツ推薦で進学した高校で、チームメイトでありライバルでもある仲間たちと日々を過ごしていた。

充実した日々を送る中、突然怪我をしてしまう。思うように身体が動かない焦りから、怪我が治りきらないうちに練習を再開してはまた怪我をする。その繰り返しの中で、人間関係にも疲れを感じるようになっていったという。

「大人と過ごすのは少し疲れたから、子どもと一緒に身体を動かす仕事がしたい」

写真一番左が長谷直人さん(提供写真)

そう思うようになった直人さんの目には、スポーツクラブのインストラクターや学校の先生、リハビリの先生といった、いくつかの選択肢が浮かんでいた。

周りに教員や教育関係の仕事に就く人が多く、将来像を描きやすかったこともあり、大学で学ぶことを決意する。せっかくなら、身体を動かすことに関わる仕事をと、体育の教員免許を目指しつつ、もともと興味のあった医療の分野も学べる大学・学科を探し、一浪の末に入学した。

大学4年の教育実習で訪れた特別支援学級で、直人さんは出会った子どもたちと接する時間がとても楽しく、授業準備の合間にも顔を出すようになっていた。

実習が終わったあと、「学級介助員」という仕事の存在を知る。先生と生徒の間に立ち、子どもたちの学びや生活のサポートをする仕事だ。

教員採用試験は不合格という結果で、卒業後の進路に迷っていた直人さんは、実際にその仕事をしている人に話を聞き、学級介助員の道へ進むことになった。

学級介助員として働き始めて2年目の3月、東日本大震災が発生。テレビに映る津波の映像を見て、直人さんの中に「両親と死別した子どもたちのために何かできないか」という想いが芽生えていった。

東日本大震災で津波が直撃した校舎

夏休みに震災避難者の子どもたちを対象にしたキャンプに参加し、そこで耳にしたのが、マザー・テレサが生前に語ったという、ある言葉だった。

「もし平和をつくりたいのなら、まず自分の家族を愛することから始めなさい」——。

この言葉を聞いた直人さんは、「震災避難者を助ける前に、目の前にいる児童養護施設で暮らしている子のために、働きなさいと言われた気がしたんです」と話す。

学級介助員として担当していたクラスに、施設で暮らす子がいた。施設の担当職員に「どうやったら、施設で働けるのか」と尋ねると、ちょうど職員を募集していることが分かった。とんとん拍子に採用が決まり、直人さんは児童養護施設で働くことになる。

7年間、児童養護施設で働く中で、直人さんは施設の実態について、自分自身の思い込みが覆される経験をしたという。

衣食住が整い、お小遣いや誕生日プレゼント、旅行の機会もある。もちろん家庭の事情や、常に誰かがいる環境ゆえの難しさもあるが、一般家庭より恵まれている部分も少なからずあった。

問題は、その先だった。18歳になれば、子どもたちは施設を出て1人暮らしを始めなければならない。

困った時に頼れる家族がいる子はまだいいが、家族のもとへ戻れる状態まで整っている子はごくわずかだ。さらに、施設にいる間は職員の管理下にあったお金が、卒園と同時に自由に使えるようになる。その反動で、卒園から半年ほどで貯金を使い果たしてしまうケースを、直人さんは何度も目にしてきた。

「施設での生活サポートも大切だが、社会に出てからの支援も必要ではないか」

そう考えた直人さんは施設を離れ、公益財団法人(地域の福祉活動などを支援する非営利の団体)の一事業として、地域で相談できる場をつくる活動を始める。

加えて、当時の職場で多感な時期の子どもたちの帰宅が遅くなっていることに気づき、理由を尋ねた時のやりとりも、独立を後押しした1つのきっかけだった。

「別に悪いことをしたいわけではなく、中学校に上がって、小学校まではずっと一緒に遊んでた子たちも、部活が違ったり、塾があったりで、遊ぶ時間や話をする時間がなかなか取れないんだと聞きましたね」

であれば、時間や場所をつくってあげればいい。

施設の子どもたちが、もともと暮らしていた地域から離され、施設のある土地に移り住むように、生まれ育った場所も、たどり着いた場所も、どちらも「ふるさと」になれるような仕組みをつくりたい。

そう考えた直人さんは、地域での活動に本格的に軸足を移していく。

そんな折、知人の子どもに学校への行き渋りがあると聞き、これまで子どもたちと接してきた経験を生かしたいと思うようになった。

財団の建物を使い、週に一度、学校に行かない選択をした子どもたちのために、学校の教科教育とは違う学びの場を提供する活動が始まった。これが、今につながる不登校支援のはじまりである。

不登校支援を選ぶ理由

有限会社AHKの取締役として、重症心身障がい児を対象にした児童発達支援施設や放課後等デイサービス、訪問看護ステーションの運営も手がける直人さん。幅広い事業を展開する中で、なぜ不登校支援に力を注ぐのか。

「不登校は、単に『学校に行けない』という問題ではないと感じているからです」と直人さんは話す。

子ども本人の心の問題、家庭の事情、学校との関係、将来への不安など、その背景には多くの課題が複雑に重なっている。

「出会う子どもたちの中には、本当は学びたい気持ちや友達と関わりたい気持ちを持ちながらも、さまざまな理由から一歩を踏み出せなくなっている子が少なくありません。そして、その傍らには、どう支えればよいか分からず、悩み続けている保護者の方がいます」

直人さんが考える不登校支援とは、学校復帰だけを目指すものではないという。

子どもが安心して過ごせる居場所をつくり、自分らしさを取り戻し、将来への希望を持てるように支えること。そして、保護者が孤立せず、安心して子育てができる環境をつくること。その両方が欠かせないと、直人さんは考えている。

「不登校は決して特別なことではなく、今やどの家庭にも起こり得る身近な課題です。だからこそ私たちは、子どもや保護者が『1人ではない』と感じられる、地域の支援体制づくりに力を入れていきたいです」

子どもの変化を育む場

直人さんが、不登校の子どもたちと関わる拠点となっているのが「子ども倶楽部ハウス」だ。

開いているのは週に一度、9時から14時までと限られた時間だが、地域の居場所として、子どもたちが「やってみたい」と思ったことを実際に体験しながら、好きなこと・嫌いなこと・得意なこと・苦手なことを見つけたり、向き合ったりする場になっている。

子ども倶楽部ハウスの建物のすぐ隣には、有限会社AHKが運営する「あんあんの家」がある。

あんあんの家と子ども倶楽部ハウス(提供写真)

あんあんの家は、重症心身障がい児を対象にした児童発達支援や放課後等デイサービス、訪問看護ステーションが入っており、ここに通う子どもたちと、子ども倶楽部ハウスの子どもたちが一緒に活動する機会も多いという。

これまでは、流しそうめんやお餅つき、プロの音楽家を招いての音楽会などを行ってきた。調理実習の際には、漁師から届いたわかめの株を一緒に切り分けて、しゃぶしゃぶにして食べたこともある。

学校の授業では得られない体験をしている(提供写真)

「世の中でもインクルーシブ(誰も排除せず、共に生きること)が言われるようになって、学校教育でも、支援学校や支援学級との交流の場は設けられるようになりました。でも実際、発達障害などがある方と、どう接したらいいか分からない人が大半だと思うんです」

毎週、同じ敷地内でお互いの存在を目にし合うことが当たり前になれば、特性を持つ子どもや大人への偏見も少しずつ減っていくのではないか。それが、2つの施設を隣り合わせにして活動を続ける理由の1つだ。

活動の中で直人さんが大切にしているのは、「その子自身を理解しようとすること」だという。

「支援の現場では、どうしても『できる・できない』『学校に行ける・行けない』といった結果に目が向きがちです。私たちは、その行動の背景にどんな想いや理由があるのかを知ることを大切にしています」

学校に行けない事実だけを見るのではなく、その子が何に困り、何に不安を感じ、どんなことなら安心できるのかを一緒に考えていく。答えを押しつけるのではなく、1人ひとりのペースを尊重しながら伴走する。それが直人さんの基本的な姿勢だ。

「支援とは、誰かを変えることではなく、その人が本来持っている力を発揮できる環境を一緒につくることだと考えています」


印象に残っている変化の1つに、ある子どものエピソードがある。

何をするにも「何でもいい」と答えるのが癖になっていた子が、ある時「これをやってみたい」「あそこへ行ってみたい」と、自分の希望を口にするようになった。

子どもたちがやりたいことを大切に(提供写真)

自信を取り戻したその子は、月日が経つにつれて表情も明るくなっていった。そして半年ほど経った頃、新しい学年に上がるタイミングで、自ら学校へ戻る道を選んだ。

「子どもたちが何をしたいかを大切にしているので、『何でもいいよ』じゃなくて、『何がやりたいかは心の中にあるでしょ?』と思うんですよね。そこに気づいてあげられたら」

もう1つ、直人さんの記憶に残っているのが、直径3メートルほどの大きなトランポリンを使った日の出来事だ。

子ども倶楽部ハウスの子どもたちと、あんあんの家に通う子どもたちが一緒に跳んでいた時、脳性麻痺の子と初めて接した小学1年生の子が、動かないその子を見て「死んでいるの?」と口にした。

その場にいた看護師のスタッフが、「ちゃんと生きているよ。目を瞑ってるだけ」と伝える一幕があったという。

聞きようによっては厳しい言葉に聞こえるかもしれない。しかし直人さんは、それを「新しい発見」だと捉えている。

初めて出会うタイプの人と実際に接したことで、その子の中に「こういう人もいるんだ」という気づきが生まれたのではないか。たとえ本人がそのやりとりを忘れてしまったとしても、静かな湖面に石を1つ投げ入れれば、波紋はきっと広がっていく。

「子ども倶楽部ハウスで出会った子たちの心の畑の土を、いかに耕し、種を蒔き、水をやることができるかを大切にしています。今まで彼らに接してくれた人たちが、土壌を耕し種を蒔いて水を与えてくれたおかげで、僕らの目の前で綺麗な花を咲かせてくれている。それを忘れてはいけないし、自分たちの力のおかげだなんて勘違いしてはいけません」

なぜ不登校児が増えたのか?

近年、不登校の子どもの数が増えていると言われる。現場で日々子どもたちと接してきた直人さんは、その背景に大きく6つの要因があると見ている。

①子どもの特性への理解が進んだこと

発達特性、感覚に対する過敏さ、不安を感じやすい傾向、起立性調節障害(自律神経の乱れにより、朝起き上がるのがつらくなる体の不調)、学習面でのつまずきなど、以前は「気合が足りない」で片づけられていたことが、少しずつ理解されるようになった。

無理をして登校していた子どもが、「休む選択」を取れるようになった面がある。

②学校の仕組みが合わない子が増えたこと

学校は集団行動、周りに合わせること、時間管理、大勢が同時に同じ内容を学ぶ一斉授業を前提にしている。一方で社会は、1人ひとりに合わせた学び方やオンライン学習、多様な働き方へと広がりを見せている。そのギャップから、「学校の仕組み自体が自分に合わない」と感じる子が以前より目立つようになった。

③人間関係のストレスが増えたこと

昔もいじめは存在したが、今はSNSやオンラインゲームを通じて、学校外でも人間関係が途切れずに続いてしまう。24時間誰かとつながっている状態は、トラブルも可視化されやすい。学校だけがストレスの発生源ではなくなっている。

④保護者の意識が変わったこと

以前は「多少つらくても学校へ行くべき」という考え方が主流だった。今は「命や心を守ることを優先する」考え方が広がり、無理に登校させず休養を選ぶ家庭も増えている。

⑤コロナ禍の影響

休校やオンライン授業を経験したことで、「学校に行かなくても学べる」という感覚や、家で過ごすことへの抵抗感の薄れ、生活リズムの乱れなどが指摘されている。

⑥「頑張れない子」ではなく「疲れている子」が増えたこと

常に評価され、失敗が可視化され、正解を求められ、情報があふれる環境の中で、心のエネルギーを消耗している子どもは少なくない。子どもたちが怠けているわけではない、と直人さんは強調する。

児童養護施設や特別支援学級での経験を踏まえ、直人さんはこう話す。

「不登校の背景には、発達特性、家庭環境、学校環境、人間関係、心身の不調が複雑に絡み合っています。だから最近は、『学校に戻すこと』よりも、『その子が安心して学び、成長できる居場所をどうつくるか』という視点が重視されるようになっています」

子ども倶楽部ハウスで日々起きている小さな変化は、決して偶然ではない。直人さん自身の歩みの中で培われてきた関わり方の積み重ねから生まれたものだ。

では、不登校の課題は社会全体として、どう捉えられているのか。そして、悩みを抱える保護者に、直人さんはどんな言葉をかけたいのか。

後編では、不登校をめぐる社会課題と、直人さんが保護者へ伝えたいメッセージをお届けする。

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この記事を書いた人

フォスター詩織

Kotonohaメディア代表。声なき声をすくい上げ、社会へ届ける活動を軸に執筆を行う。多様な生き方と価値観を尊重し、共感と気づきを生む記事制作に尽力中。